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滋賀の旅(15)近江日野商人館 日野商人の魅力 [滋賀]

日野椀、薬とともに、もう一つ、江戸時代に作られていのが
「日野鉄砲」です。
江戸時代初期の記録では、300軒の鉄砲鍛冶がいたという記録も。
今でも「金くそ」と呼ばれる鉄砲を作った際の鋳造くずが出てくるそうですよ。

関が原の戦いの直前、家康側に日野鉄砲が献上されました。
その後、元禄元年(1688年)に鉄砲製造所持禁止令が出されます。
鉄砲鍛冶たちは違う仕事につかなければなりません。
幕府は関が原の戦いでの貢献などの見返りに、商人になるなら保護しようということで
日野商人を保護することとなりました。

でも、誰彼構わず保護するわけにもいきません。
元禄3年(1690年)頃から、「日野大当番仲間」という商人組合を結成。
個々に印札(鑑札)を発行したそうです。

そして、日野大当番仲間では、全国に「日野商人定宿・休泊所」を設置。
その店先には、こんな看板が下がっていました。
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資料館のチケットも看板の写真が使われています。
看板には通し番号が彫られていて、600番台のものもみつかっているそうですから、
全国に600は宿があったということですね。
また、飛脚制度も大当番仲間で運営していました。

近江商人の中で唯一、団結して、商売を展開していったのが日野商人の大きな特徴なのです。

資金を蓄えた近江商人たちは、出店経営に乗り出します。
「八幡の大店、日野の千両店」という言葉があります。
八幡商人は一商人が一つの店舗を経営していましたが、日野商人は一人の商人が多店舗を経営。平成21年の調査時点で、江戸・明治以降と合わせての出店数は全国に約900店あるそうです。
エリアも八幡商人は都会。
一方の日野商人は栃木、群馬、茨城といった、江戸を除く関東圏が中心でした。

日野商人が扱っていたものは酒・醤油・お酢などが多く、
現在、栃木、群馬、茨城で作られているお酒も日野商人が扱っていたものが結構あります。
私もこの幾つかは呑んだことあります~!
こんなふうに展示されていました。
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商人たちはふだんは出店先で過ごしていました。
その多くは関東地方です。
そして、日野の本宅に女性と子どもが残ることになります。
ダンナさんとなかなか会えない生活が続くため、
日野商人の妻は「関東後家」と呼ばれていたそうですよ。

また、男性がいない暮らしは物騒です。
そこで、誰が来たのかのぞける「のぞき窓」や、
「用心下駄」と言い、男性がいるかのように見せるため、
玄関に下駄を置いていたそうです。
一人暮らしをしたことがある女性の方、「あるある」と思いませんか?

今回はちょっと真面目に日野商人について書いてみました。


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コメント 2

けったま

思いがけず「茨城」が出てきて、びっくり。
今も大変なのに、当時の日野商人の苦労に思いをはせます。

by けったま (2009-12-20 08:55) 

びわ

けったまさま

そうなんです。
資料館の方の話を聞いてビックリ。
これから関東の日本酒を呑む際は、
近江商人に思いをはせそうです。
by びわ (2009-12-20 18:45) 

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